祈るということ。~長崎原爆の日に寄せて~
長崎に原爆が投下された日ですね。
セミの声を聴きながら
長崎平和公園の式典をニュースで見て、
美しいコーラスに耳を澄ませました。
あの式典で歌ってくれたのは
長崎に本部(発祥)をもつ
カトリック系ミッションスクール
長崎純心高校の皆さんで、
大きな意味で言うと私の後輩たちなのです。
・・・はい、実は私、東京純心といって、
長崎純心の東京支部的な学校の出身なんです。
そして私もコーラス部でしたので、
折にふれて歌い、
この時期には追悼をしておりました。
毎年夏になると、みんなで母校の理念や
長崎原爆の歴史をお勉強したものです。
高校の修学旅行では
実際に長崎県の母校にお邪魔して
交流をさせていただいたり、
当時の様子を勉強したりもしました。
あまりのショックに言葉も出ず、
鼻をかみながら感想文を書いたのが
昨日のことのように思い出されます。
ちなみに展示品で一番印象に残っているのは
「表面が泡立った瓦(かわら)」です。
なんで泡立ったかってね、
原爆の熱で泡立ったんです。
瓦って、粘土で作られた
陶器の板のようなものですから、
家の屋根になってる時点ですでに
何千度という炎で焼かれているものなんです。
ガラス瓶とかならまだイメージできますよね。
熱でぐにゃってなるの。
たしかに、その展示室にも、
原形をとどめていないコーラの瓶や
当時のガラス製品なども
多数展示されていました。
でも高温の炎で焼くことで作られる瓦が
液体のように泡立つって、、、
信じられない思いでした。
そのことだけ考えたって
どれほど恐ろしいものが
空から降ってきたんだろうって、
思いますよね。
まぁ、このように今回はどうしても
シリアスにならざるを得ない話題を
選ばせていただきました。
そういえば、思い返してみると
私が小さいころから母は
「犬・猫、スポーツ、宗教の話は
しちゃいけませんよ。」
と教えてくれました。
人によって激しく好き嫌いが
分かれる話題は避けましょうねということで、
そのようにして生きてきました。
これからもそうします。
それに、私自身、カトリックといっても
洗礼を受けているわけでもなく、
毎週教会に行くわけでもありません。
北欧神話なんかも大好物で、
クリスチャンですかと聞かれたら
「う~ん、まぁそんな感じかな」
と答えるくらいです。
でも、そんな私がとうとう
こうして宗教色の強い話題を選んで話し、
「祈り」について書きたいぞと思う程度には、
いまこの世界は混沌としていて、
新型コロナウイルスとともに
人間の恐怖や不安や
ひた隠しにしてきた欲望なんかが
噴き出してしまっている気がしてなりません。
あおり運転なんかもそうですよね。
乗っている車と自分を同一視してしまい、
まるで自分自身が鋼鉄の体を持ったかのように
横柄にふるまったり、
新型コロナウイルスのせいとはいえ、
失職した人が窃盗をしてしまったり、
性的欲求に抗えずに
相手に危害を加えてしまったり、
自分だけは助かりたいからと、必要以上に
医薬品や衛生用品を買占めたり・・・。
でもそれを「悪だ!」とSNSで
完膚なきまでに炎上させて叩き潰すような
「正義」も多く見受けられるように
なりました。
そうした傾向を、一部の人々が
「○○警察」と揶揄することがあるように、
その正義って本当に正義なのかしら、と
考えてしまいます。
どちらもやりすぎで、
どちらも
誰かから見たら被害であり、加害ですよね?
そしてそのまま双方が
「自分が被害者だ(相手が加害者だ)」
とぶつけ合うだけでは、
永遠に問題は解決しません。
それこそが「戦争」の姿なのです。
安易な言い方になってしまいますが、
そこにお互いに足りないものは、
やはり想像力ではないでしょうか。
相手の痛み苦しみを
もし自分だったら・・・と考えるチカラ。
(共感のし過ぎは別な問題がありますが(^^;))
最近は想像力を補うような
便利な道具がどんどん開発されていますよね。
例えば、様々な状況を経験できるアプリや
VRなどの発展には目覚ましいものがあります。
新型コロナウイルス対策をしている
多くの遊園地などでも、
VRを併用することで3密を避け、
衛生的に遊べるように工夫しているところも
あるのだとか。
また、とある研究では、
追体験できるようになったというのですから、
最近、というか、これからの時代は
想像力なんてなくても
機械が補ってくれるから大丈夫、と
無意識の安心感のようなものがある気がします。
実際、
戦争が遠い過去のものになりつつある今、
それを「臨場感をもって想像しましょう」
と言われたって、なかなか難しいですよね。
だって、
想像することも難しいくらいなのに、
その当時、
いったい何が当たり前で、
何が高級なことで、
一日のルーティンはどうとか、
家族や親戚のスタンスはどうとか、
そういうことを想像しようにも
限界があると思います。
ましてや新型コロナウイルスの影響で
たくさんの人が集まる授業や講義なども
開催が難しいですから、
なかなか質問とかもできないし、
ますます臨場感が薄くなってしまいますよね。
だから、戦争を自分のことのように
想像するのが難しい世代のことを
「今どきの若いもんは」と
一方的にけなすようなことはできないし、
するべきではない、というよりも、
する必要がないんじゃないかな。
どうやって親身になるか。
自分のことのように考えるか。
大人と子供が一緒になって
考えていけたらいいなぁと思うんです。
そしてそんなとき、ぐるっと1週まわって
「原点に立ち返る」というのは
とても良い方法だったりします。
そう、たとえば本を読むことです。
活字が苦手だったら、児童書とか、
絵本でもいいです。
最近は大人向けの難しいテーマを
絵本にしたものもたくさんあるので
お勧めです。
私自身はもともと本が好きなのですが、
こと原爆に関しては
高校の修学旅行の前に課題図書で読んだ
『焼身(しょうしん)』という本の衝撃が
今でも忘れられず、
今日の長崎原爆の日に際して
ひさしぶりに読んでみました。
やはり涙が出ました。
国ぐるみの大きな戦争の中で、
何の罪もない人々が
なぜこんなにも唐突に焼き払われ、
明日を奪われなければならなかったのか。
『焼身』では1945年当時の
長崎純心の人々の様子や、
生き残った生徒さんをはじめ
シスターの先生方が、
圧倒的に物資がないなかで
献身的に負傷者のお世話をする場面も
描かれています。
何もかもが欠乏した、
原爆投下直後の医療現場。
懸命な治療の果てに失われていく命は、
その悲痛さは、
なんと表現すればいいのか。
もちろん現代の新型コロナウイルスに
苦境を強いられている私たちも
命として同じ重さで同じように尊いとはいえ、
比べることもおこがましく思えるほどの
想像を絶する痛み苦しみの果てに
こぼれ落ちていったのですから。
悲しくてなりません。
もちろん、
感染症と戦争による被害とを、
このように同列に引き合いに出すものでは
ないかもしれませんが、
私も父を亡くして、命や人生について
ますます考えを深めることと
なりましたわけで、
もし何もなかったとしても、
1年のうち、せめてこの時期だけでも
命について考えを深め、
せめて祈りたいと思わずにはいられません。
別に、祈る前に
「今から祈るなう」とも、
「祈ったよ」とも
つぶやくわけではありません。
誰に気づかれもしないまま、
ただ心のなかで祈るだけです。
拡散もされません。
イイねも押されません。
例えば私が祈っていることを、
この世界のなかで私しか知りません。
誰も知らないんです。
炎上もしませんが、
そのかわり、褒めてももらえません。
でもそれでいいんです。
祈るということは、
具体的にそれが神様に対してなのか、
では神様という存在はいったい何なのか、
それはたんに心理学的に
「私はこうしようと思う」という
内言的な心の声としてのものなのか、
もっと大いなる現象を指しているのか・・・。
そういうことを考え始めると
哲学と神学と心理学がぐるぐるし始めて
わちゃわちゃしますが、
心理学を勉強してしまった(と言いましょう(笑))私の考えとしては、
祈りというのは
利他的行動をとるための
トリガー(きっかけ)なんだと思います。
祈ることによって
無意識に善い行いをするようになり、
それによって誰かが幸せを感じたり、
嬉しくなったり。
そういう気持ちになった誰かが
見知らぬ誰かのために
人知れずまた善い行いをしてくれる。
そういう、
ほわほわしたステキな流れを作るための
トリガーなんだと思います。
「我も我も」な混沌の現代に、
どうにかして
ほわほわの流れを作りたいなあ。
広島、長崎の原爆に寄せて。
↑
100均のビーズとワックスコードで作った
手作りのロザリオです。
ロザリオとは、祈る回数を数えるための
そろばんみたいなものです。
十字架は高校のときのいただきもの。
自分でもとても満足のいく出来になりました
(´ω`*)
私が当時課題図書で読んだ『焼身』は
コチラです。