茶豆和菓子のおは・きな・ずん!

車椅子の漫画家、茶豆和菓子(ちゃまめわかこ)がいろいろ書くよ!見ていってね!

障害者にも健常者にも優しい世界へ!双方向バリアフリーとは

茶豆和菓子の おは・きな・ずん!
はっじまっるよ~!
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みんな~!まぼおっは~!
まぼろし国の挨拶です!)
 
今回は、まぼろし国にとって
とても重要なお話をしたいと思います。
 
ブログ「おは・きな・ずん!」を
ご存知の方も、そうでない方も
たくさんの人に
読んでいただけたら嬉しいです。
 
ということで、改めて自己紹介を
させてくださいな♪
私は、ペンネームを
茶豆和菓子(ちゃまめ わかこ)と申します。

876gの超未熟児として生まれた私は、
いくつかの持病と、軽度の脳性麻痺のため、
車イスで生活しています。

上智大学総合人間科学部心理学科で、
発達心理学を専攻。
 
さらにアドラー心理学を学んで卒業し、
カウンセラー、漫画家、
イラストレーターとして活動しています。

小学校6年生の時に
文芸社さんから出版された絵本
の、続編となる漫画
を、現在webで連載しています。
ヘッダー3_1972_600.png
漫画の舞台は
まぼろし国」というメルヘンの国。
 
カラフルなおはぎたちが
仲良く、元気に暮らしています。

私は
そのまぼろし国のお城の片隅にある、
王立広報部八王子支部から、
ブログやツイッター、インスタグラムなどの
SNSで、4コママンガ『まぼおは』や、
イラスト、自分の考えなどを
発信しているということなのです。
 
さらに、Youtube
動画配信も始めました。
 
ありがたいことに、
みなさんのお目に、お耳に留まる機会も
増えてきて、とても嬉しいです。

(*´▽`*)

最近、
茶豆の活動をご覧になった方から、

次のようなご質問をいただくことが
多くなりました。
 
双方向バリアフリーって なぁに?
 
・・・たしかに。
 
今まで、折にふれて
 
などで、

双方向バリアフリーという言葉を
使ってきたのですが、
いろいろなトピックに付随するカタチでしか
お伝え出来ていなかったこともあり、
なかなか
分かりやすくお話しする機会を
持てずにいました。
 
じつは「双方向バリアフリーとは、
 
茶豆が作った
新しいバリアフリーの概念
 
なのです。
 
それは、
メルヘンの王国まぼろし国のココロ」
そのものでもあります。
 
というわけで今回は、
皆さまからのご質問の
「双方向バリアフリーについて、
詳しくお話ししたいと思います。
 


そもそも
バリアフリー(Barrier-free)とは
障害者や高齢者など、
社会的に立場の弱い人々の
物理的・精神的な障壁を取り除く方法
または取り除いた状態を表す言葉です。

最近では、2020年の
控えていることもあって、
少しずつバリアフリー化が進み、
さらに、いろいろなメディアでの
バリアフリー特集なども増えてきました。

そのおかげで、さまざまな
身体的、精神的な障害についても
以前よりも細かく紹介されたり、
少しは気兼ねなく発信できるようになり、
ちょっとずつバリアフリーへの理解が
深まってきたように思います。
 
それって
とても素晴らしいことですよね!
 
優しい気持ちの流れが生まれているなぁと
実感することも多くなりました。

でも、いざ、その優しい気持ちを
実践しようとしたときに、
みなさん、こんな経験をしたことって
ありませんか?
 
【CASE1】
町で車イスの人を見かけたから
「何かお手伝いしましょうか」
と声をかけたところ、
「大丈夫です」と断られてしまった…。
 
【CASE2】
電車やバスなどで
ご高齢の方に席を譲ろうとしたら
「馬鹿にするな、
まだそんな歳じゃない!」
などと、怒られてしまった…。
 
 
気まずいですよね!?
 
せっかく
勇気を出して声をかけたのに
断られちゃったし、怒られちゃったし、
もう声をかけるのやめとこうかなと
思ってしまうのも無理もありません。

私自身、毎日皆さんに助けてもらいながら、
車イスで4年間、大学に通いました。
 
ときには道行く知らない人にも、お手伝いを
お願いしなければならないこともあり、
そんなときは、
やはり毎回、とても勇気が必要でした。

このような日々の体験から、
心理学を勉強しているなかで、
バリアフリーの在り方について興味を持ち、
障害者と健常者の両方に、
バリアフリーについての意識調査
したことがありました。
 
すると、障害者の人からは
 
・助けを求める声を出すのが恥ずかしい
 または、申し訳ない
・断られるのが怖くて、
 困っていても助けてと言えない
・かわいそうと思われるのが嫌で、
 手助けを断ってしまう
 
という声が多く、
健常者の人からは
 
バリアフリーは実践したいけど、
 手伝っていいのか見守ったほうがいいのか
 結局、判断できないので声をかけられない
・断られたら思うと、
 なかなか声をかけられない
 
という声が多く集まりました。
 
その結果、
健常者と障害者のどちらにも
 
「断られることが怖くて
 声かけができない」
 
という共通点があることが
浮かび上がりました。
 
さらにまた、健常者の人からは
こんな声も上がりました。

「自分は健常者だけど、
 じつは体力がなくて、つらいときもある。
でも、どんなに疲れていても、
目の前に障害者の人や高齢者の人がいたら、
席を譲らなければならない。
それが地味につらい。」
 
その人は
とても言いづらそうだったのですが、
私はこれを聞いて、
たしかに、もっともだと
思い当たりました。
 
私にとってのいちばん身近な健常者といえば、
まずは両親ですが、考えてみれば
めっちゃ具合の悪い我が子を育てる
怒涛の闘病生活のなかで、
当然、キツイ日だってあったはずです。

でも、

自分たちは座らなくても
私のことは座らせ、抱っこをし、荷物を持ち、

自分たちは眠らなくても
毎日休まず働いてくれていたのです。

健常者である両親だって、

ツラかったと思います。

バリアフリーなんだから
障害者に優しくしてあげないといけない

自分は健常者なんだから
元気に頑張らないといけない

・・・健常者の人にも、
いたわりや、思いやりが必要ですよね。

我慢が続けば、

「こんなに親切にしてあげてるのに!」

という気持ちになってしまうのも
当然のことでしょう。
 
このように、
 
健常者に対する思いやりと
障害者に対する思いやりに
差があるとすれば、
そこには、そもそも
バリアーがあるということ
になってしまいますよね?
 
 
「障害者はズルい」
 
「障害者は楽をしている」
 
「障害者に存在価値はあるのか」
 
といった、悲しい、誤った認識も、
そうしたバリアーによって
生まれるのかもしれません。
 
 
でもホント言わせてください・・・。
障害があるから
楽ができるなんてこと、
全然ありませんから!
 
 
例えば公的な補助もありますが、
それは
介助がなければ満足に移動することも
ままならず、介助の内容によっては
プライバシーさえもない
私たち障害者が、
なんとか皆さんといっしょに
生きていくために必要不可欠な
命綱なのです。
 
 
それなのに、その補助を不正に
利用するような事件も時々あって、
そうしたものを見聞きすることが増えれば
ますます障害者は楽をしている、だなんて
思われかねませんよね。
 
本当に悲しいです。

でも、もしも、
そのような事件の背景に
本当の悪意だけではなく、
グレーゾーンの健常者として
生きるツラさ
あってのことだとしたら・・・
 
もっと複雑で悲しい気持ちに
なってしまいますっ!
(´;ω;`)
 
 
たとえば、
病名がなければ、疲労はただの疲労だし、
診断がつかないのなら、発達障害も、
ただの変わった人ということに
なってしまうでしょう。

自分の状態がハッキリしない
グレーゾーンにいるのは、とても苦しいものです。
 
そうしたストレスから、
本当に病気になってしまうこともあります。
健常な人たちの
心が逃げ込める場所がなくて
苦しいままだとすれば、
それは本当の意味で健常だと
言えるのでしょうか。

障害があっても、
スポーツや芸術など、
日々、
自分にできる精一杯のことを
しているのだとすれば、
やはり 障害のある・なしで

ひとの幸・不幸を
決めることはできないのでは
ないでしょうか。
 
 
今は車イスで生活している私ですが、
仮死産から蘇生した後は、
ずっと寝たきり状態でした。
 
その後、少し良くなってからも、
あまりにも複雑に重なり合った
症状には、ハッキリと診断が
つかないものもあり、
 
また、当時の医療体制には、
今のような柔軟な横の連携もなく、
各科で受診して原因不明なら
そこでお手上げ、
ということも多かったのです。

さらに、子供は日々成長していく
ということもあり、
私の毎日の具合の悪さも

「発育が遅れているだけ」

「こども特有の発達のムラ」

「大人になったら治る」

と言われてきました。
 
そのため、
「ちゃんとしなさい」

「やらないから、できないんだ」

と、否定され、いじめられるような
グレーゾーンな時期が、
小学校を卒業するころまで
ずっと続きました。
 
でも、その頃のことを
思い返してみると、
じつは私は様々な内臓疾患に加えて、
自閉症ADHD、感覚過敏症など
いろいろなタイプの発達障害
持っていたのだと思います。
 
それに気づいたのは、
大学で発達心理学を学んだとき、
授業で見聞きする様々な症例が
闘病当時の私そのものだったからです。
 
衝撃でした。
 
( ゚Д゚) ピシャアァァンッ!
 
いまさら確信をもって、
子供時代の自分を発達障害だったと
カミングアウトする私って・・・
という感じですが、
876gという超未熟児で生まれ、
脳をはじめとしてあらゆる機能が
未発達だった私は、
当時はそのような病気の定義さえ
まだなかったはずの、
まさに発達障害だったのです!
 
いまでは、
書店にもさまざまな育児書や、
障害のある子どものための本がならび、
そうした病気が
決して親の責任などではなく、
誰にでも起こりうる病気として
認識されていますが、
私が小さかった頃は違いました。
 
当時はまだまだ
あらゆることが良いか悪いか、
健康か病気か、マルかバツかの
二元論的に分類されていて、
そこにグレーゾーンは
存在していませんでした。
 
現在では科学的に証明されている
様々な病気も、当時は遺伝性だとか、
ひとえに
親の育て方が悪いからだとか
個々の性質の違いだとか言われていました。
 
だから、
私が未熟児で生まれたのも
発達が遅いのも、
母の育て方・接し方が悪いのだ
ということになり、
子供の私も甘えているといわれ、
「世間の育児の常識」の枠
のなかで、
日々苦しい思いをしていました。
 
そのため私も、
健常者として生きることのツラさや
診断のつかないグレーゾーンの苦しみを、
身をもって知ることになったのです。
 
大きくなっても
なかなか上手に歩けるように
ならなかった私は、
中学生になったある日、
母といっしょに、病院の先生に

「いつになったら歩けるようになりますか?」
と聞いてみました。

すると、

「えぇっ!?その足じゃ歩けないよ!?
 障害者手帳、持ってるよね!?」

「えぇっ、持ってないですよ!?
 だって、どの先生も、大きくなったら
 治るって言われて・・・」

本当にショックでした・・・。
 
今まであんなに無理をしてまで
一所懸命、治療や訓練をしてきたのに
ここまでやってきて
「やっぱり歩けない」って
どーゆうこと!?
( ゚Д゚)
 
何か月も泣いて、落ち込みました。
 
でも、
少しずつ自分の状態を
受け入れられるようになり、
もうこれからは
私のペースでやっていいんだ。
 
と、やっと思えるようになりました。
 
医療の枠や制度から取りこぼされた
苦しい子供時代を過ごした私は、
こうして
膠原病脳性麻痺などの診断もついて、
やっと必要なサポートを
受けられるようになりました。
 
 
このような経験をしてきたことで、
物事の基準や常識、
モノの見方というものが
時代によって、
またそれぞれの立場によって
どのようにも変わりうるのだ
ということを実感しました。
 
だからこそ、
時代や制度によって
変わることのない
常識として、
健常者も障害者も区別なく
人間として対等に思いあう
必要があるのだ
ということに思い至ったのです。
 
 
最近では、うつ病発達障害などの、
さまざまな
目に見えない病気への理解が
深まるとともに、
とっても健常っぽい発達障害の人
とか

じつは うつっぽい健常の人
などなど・・・
 
障害や病気というものが

白か黒かだけじゃない、
境目のない
グラデーション状態なんだ
 
という理解も、
だんだんと深まってきましたが、
 
だったらですよ?
 
だったらそもそも

障害者とか、健常者という
枠組みって何なんでしょうか。
 
もし、バリアフリーというものが、
これまでのように
健常者から障害者に向けて
施されるものでしかないのなら、
不自由な人は、いつまでも
「元気な人から何かを
 してもらうしかない社会的弱者」
のままだし、
じつはツラい健常者も
そのツラさを押し殺して
「社会的にツラくないひと・元気なひと」
として、
不自由な人に何かをしてあげようと、
無理をしてしまうでしょう。
それでは
 
バリアフリーは 二極化したまま
・健常者から → 障害者/高齢者へ
・してあげる → してもら
 
という、
一方通行のベクトルしかなくて、
思いやりの天秤は
釣り合いませんよね
 
もちろん、
人の心の中を見ることもできません。
 
ではどうすれば良いのでしょうか?
 
お互いに思いやる心を持つためには、
 
はかり知れないことを
はかり知ろうとする想像力
 
が、必要なのではないでしょうか。
 
 
だから、
まずは想像してみましょう!
 
もし自分が、
 
歩きたいのに歩けなかったら・・・
 
水が飲みたいのに飲めなかったら・・・
 
話したいのに声が出なかったら・・・
 
健康な人でも、一日中働いて
足腰がパンパンだったらつらいですよね。
 
それでも、遠い道のりを歩いて
帰らなければならないとしたら・・・
 
元気そうに見えても、じつは診断のつかない
内部障害を抱えているとしたら・・・
 
いつも元気な人でも、
なにか悲しいことがあったりして
元気が出ないことだってありますよね。
 
「もし自分や大切な人が、そうだったら」
と、想像してみてほしいのです。
 
え?そんなことを想像しだしたら
キリがないって?
 
 
・・・いいんです!
 
キリがなくていいんです!
 
果てしなくていいんです!
 
可能性の数が果てしないということは、
 
それだけ私たちが
優しくなれる可能性も選択肢も
果てしなく存在しているのだ
ということなのですから。
 
自分のことに置き換えたら、
そのツラさを
とても嫌だと思えるでしょうし、
それを嘘じゃないかと疑われる悲しさも、
容易に想像できることでしょう。
 
そうしたら、
目の前にいる元気そうな人が
優先席に座っているのも、
「健常者が優先席を占領している」
のではなく、
「目に見えない障害があるのかもしれない」
と思いやることができるし、
明らかに不自由そうな人には
もっとはっきりと
優しくすることができますよね。
 
そうして
元気な人が
不自由な人を思いやって
助けてもらう側も
その優しさに感謝をして
助けてくださる
元気な人々の苦しみを
想像して寄り添ったら・・・
 
ほら、優しさの天秤が
釣り合いますよね・・・!
 
これが、私、茶豆和菓子の考える
「双方向バリアフリーです。

双方向バリアフリーは、
ただ妄信的に博愛主義を唱えているわけでも
ただ漠然とした人類愛を
語っているわけでもありません。

思いやりの心のウラで
誰しもが持ってしまうためらいや
「損だ」「得だ」といった
感情をいったん外して、
本当に必要としている人に
必要としているヘルプが
届くように。

そのために
他者の苦しみを想像し
寄り添い合う
ということなのです。

どんな人にも苦しみがあり、

どんな人にも、
そのひとなりの
生きづらさがあります。

障害者の苦しみは、
車イスや、杖や、目が見えないことなどで

逆に分かりやすいかもしれないけれど、
健常者の人の中にも、
やっぱり同じように
目に見えない苦しみがあると思うのです。

だって同じ人間ですもの。

バリアフリーが進み、
さまざまな状態が受け入れられつつある今、

思いやりという優しさは、
もはや
健常者から障害者に向けられるだけの、
一方的なものであってはなりません。
 
そして、
健常者も障害者も、どちらも、
声をかけることを
どうか恐れないでください。
 
元気なひとは
「大丈夫ですか?」
「なにか手伝おうか?」
などなど、できる範囲で
相手がどんなヘルプを必要としているのか
聞いて確認したり、
不自由な人は
「ちょっと困ってるんです」
「助けてください」
と勇気を出して声をあげましょう!

無視されるかもかもとか、
断られるかもと不安になる必要はありません。
それは
普段の何気ない会話とも同じことです。

たとえば家族や友人の間で
「消しゴム使う?」と聞いて、
「う~ん、今はいいや」と返される。
 
「お茶でもいれようか?」と聞かれて
「ありがとう、でもさっき
 コーヒー飲んだから大丈夫!」
と答える。
 
お互いがお互いを思いやっていれば、
どちらも、
「あ、そう? OK!」で済む話ですよね。

もし、少し強く断られても
そこまで傷つく必要なんてありません。
 
健常者は 障害者の

障害者は 健常者の

お互いがお互いのツラさを思いやり、
臨機応変に譲りあうことこそが
大切だと思うのです!
 
 
双方向バリアフリーは、
無意識に持ってしまう
感情のバリアを取り払うこと
でもあるのです。

私たち人間は、決して平等ではありません。

でもどんな人も、生まれて、生きて、
そして死んでいきます。
 
たとえば今日は元気なひとも、
明日には事故で
車イスになるかもしれません。
 
突然難病になるかもしれません。
 
もちろん、そんなひどいことは
何も起こらなくても、誰しも、
いつか必ず歳をとって杖をついたり、
車イスになったりと、
不自由になる日がやってきます。

だからこそ、バリアフリー設備などの
 
・物理的なバリアフリー

そして、いま浸透してきている
 
・障害者のツラさ
・健常者のツラさ
 
それぞれが、
それぞれの方向から思い合い、
お互いがお互いを尊敬しあい、
優しさの天秤が釣り合って
初めて人間は
健常者/障害者
してあげる/してもらう
という壁をぶち破り、
人間存在として対等になれる
のではないでしょうか。
 
それが、茶豆の提案する
双方向バリアフリーなのです。
 
だから、
優しさの天秤が釣り合うように
障害者も、健常者も
それぞれが お互いに尊敬しあい、
思い合っていこうじゃありませんか。
 
ネ!
 
天秤.png
【追記】
「双方向バリアフリー
わかりやすく実践できるような
マークが欲しい!」
という
皆さんからの熱い声にお答えして、
『双方向バリアフリーマーク』を作りました!
双バリマーク.png
<モチーフの意味>
・車椅子の車輪
・平和の象徴であるオリーブの葉
・目の不自由な方が使う白杖
・耳が不自由なことを表す蝶々
・障害にはそれぞれに細かな違いがあることを
 表すグラデーション模様

そして

・健常者と障害者がお互いに
 声を掛け合っているイメージ
 
さらになんと!
 
「双バリマークが欲しい!」
という、皆さんの優しい気持ちが
まぼろし国に届き、
 
このたび『双バリマーク』が
アクリルキーホルダーになりました!
 
学生さんのお財布にも優しい、1個500円です。
 
現在はイベントのみでの販売となりますので、
ぜひお手に取ってみてくださいませ
(*´▽`*)
双方向バリアフリーキーホルダー.png

いままでのマークは、
障害や不自由を持っている当事者が持つものでした。
でもこの「双バリマーク」は違います!

健常者も障害者も、
大人も子供も。
身体疾患も精神疾患も、LGBTQも。

だれでも気軽に持って良いのです。

そうして
誰が
「助けを請わなけれなばならない弱者」で
誰が
「助けてあげる強者」なのかという
従来の無意識な壁を打ち壊したいのです。

さて、
このマークを目にしたあなたに
お願いしたいことはただひとつ。

このデザインを持ち歩いて、
いっしょに
双方向バリアフリーを広めませんか?


それは、
障害者も健常者も関係なく
対等に思いあえるステキな未来を
私たちがこの手で作る
ということなのです。
 
 
 
今日のおは・きな・ずん、
いかがでしたか?
長くなってしまいましたが、

これが茶豆の考える
双方向バリアフリーです。
さて、
その発信の入り口として描いているものが、
web漫画『まぼおは』なのですが、

まぼろし国に住んでいる

おはぎちゃんたちは性格も特徴もさまざまで
そして、みんなどこか不完全です。

色や性格の違いは、リアルの世界での

人種や民族の違いを表してもいます。
さらに、おはぎちゃんたちだけでなく

さるくんや くまくんなど、
森にすむ動物たちや魔女までもが
違和感なく溶け込む世界は

まったく違う種族を
対等に、まるごと受け入れあう、

双方向バリアフリーな世界の
メタファーなのです。

生きづらいなぁと思ったら。

理不尽だなぁと思ったら。

ぜひ『まぼおは』に、

おはぎちゃんたちに会いに来てください。
まぼろし国はいつでも
双方向バリアフリーな世界観で、

あなたをお待ちしております。
下記バナーから
渾身の長編連続web漫画
『まぼおは』をご覧いただけます!
↓ ↓ ↓        ↓ ↓ ↓

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