呪(のろ)いと呪(まじな)い、紙一重。feat.母の教え
『准教授・高槻彰良の推察 SEASON1』を
観終わってしまった…
あ、こんにちは、茶豆和菓子と申します。
生まれつきの脳性麻痺や線維筋痛症のため車椅子で暮らしつつ、幸いなことに定職に就き、仕事でもプライベートでも絵や漫画を描いて暮らしています。
さて、私は大学で心理学を専攻するうんと前、すごく小さい頃から魔女や魔法、妖怪や民俗学の類がとても好きでした。目に見えないものって綺麗だったりちょっぴり怖かったり、キラキラ・わくわく・ゾクゾクするなぁ。そんな彼らが、暗闇の隙間、雨上がりの花の陰にいるかもしれない。でも単に行動や共同体を守るための方便かもしれない。でも、いると思って生きていると人生楽しい!(笑)と、そんな感じです。
そんな私の興味に『高槻准教授』はクリーンヒット!呪(のろ)いと心理学の関係性などにも言及されていて、物語性も素晴らしく、観ていて深く考えさせられました。
私はもともと考察をするのが好きなタイプなので、お気に入りの作品については書きたいことが色々あるのですが、本作でいちばん共感したのは、最終回にかけて高槻准教授が言った「呪いは呪われたと思ったら負け」という言葉。
これ、じつは、私の母が私に言い聞かせてくれた言葉と同じなのです。
そんなことを言うなんて、なんだか不思議な母だと思いますよね。大丈夫、アヤシイ人ではありませんよ!母は自身も過酷な育ち方をした経験から多くの書物を読み漁り、深い人生哲学を得た素敵なひとなのです。
母は、当時まだ病状が悪く、闘病しながら生きるということに絶望していた私を導くとき、こんなふうに私に言いました。
「あなたは何に絶望して生きているの?876gの未熟児で産まれたこと?人と同じことが100%同じようにできないこと?」
まだ死という概念も分からないほど幼かった私は言いました。
「…明日なんて来なければいいのに」
それは自分で自分に言った言葉。
言葉の刃で母を傷つけながら、
同時に自分で自分を刺した言葉。
私が初めて作り出した呪いの言葉でした。
母はぐっと傷ついて泣きながらも、力強く、丁寧にこう返しました。
「誰がどんなふうに産まれるかは、誰にも分からないし、誰のせいでもない。パパのせいでもママのせいでもありません。もちろんあなたのせいでもないわ。
私はあなたを元気に産めなかったことを心の底から申し訳なく思うけど、だからといって"可哀想に"と憐れんでいるわけではありません。
苦い薬も、毎日病院に連れて行くのもそう。
助けてあげたでしょ、って服従させるためではないのよ?」
もちろん当たり前のことですが、親として子供を利用するためではないということです。
「ママを嫌うなら嫌いなさい。私は最初からその覚悟でいるから。憎んで恨みたければ恨みなさい」
「……なんか、普通のママって、そういうの、逆のこと言いそう」
「そうね。でもね、私はそう覚悟してるの。だって痛くて苦しい闘病だってわかってるもの。
私があなたを、どんなことをしてでも薬を飲ませ、病院に連れて行き、点滴を何時間でも打たせ、病院の先生に治療していただいて生かすのは、私の理由と責任においてそうしたいからよ?その理由とは、"愛しているから"です。だから、嫌われても憎まれてもいいのよ。
お盆やお正月に帰って来なくても、老後の面倒なんか見てくれなくても。良いのよそんなの、どうでも!生きて、人様に迷惑かけずに、最低限なんとか自分で自分のことができればそれで良いのよ!」
私は、難しい母の話を、泣きながらも聞いていました。真剣だということは伝わって、「私は今、これを聞かなければならないのだ」ということは分かりました。
「これからたくさんの人があなたを利用してくるでしょう。優しくして、困ってるあなたに漬け込んで、あなたが得るべき利益や権利を狙う人もいるかもね。そのときあなたが、少しでも自分で自分のことを出来たなら、騙されないで済むし、お金や気持ちを奪われないで済むわ。
でも誰が本当に助けてくれる人で、誰が"あなたのため"と騙してくる人なのか、あんた見分けられる?どうやったら自分で自分のことをできるようになれるっていうの?
まあ、むしろ誰かの助けになれるような人間になれたら本当に素晴らしいけど、どうやったらなれる?
心を逃すのは大切よ。でも立ち向かうべきときが来たら、ちゃんと立ち向かうの。
そのメリハリを、どうやって見極めるの?
そのためには知識が必要。
でも勉強をするためには、少しでも元気になって、学校や図書館に行ったり、どこにも行けなかったとしても、せめて家で本を読めるだけの体力がなくては。」
「……。」
「でも、今は痛くて苦しくて理不尽なことばかりよね。この話も難しくて分からないかもね。でも、私はあなたと対等でいたいから、自分らしい言葉で話すわ。どんなに小さい子供でも、あなたは人間として、私と同じ尊厳のある、私とは別個体の命よ。だから尊いの。」
「……。」
「自分を見つめて、何が悲しくて何が苦しいのか分析できるようになりなさい。ママが勉強してきたことも全部教えるから。あなた、せっかく助けた命なのに、毎日自分を呪って生きるの?
呪いはね、呪われたと思ったら負けなのよ?
あんた自分で自分を呪い続けて、私の可愛い娘になんてことしてくれちゃってんのよ(笑)」
不思議なことに、こんなに真剣な話に、少し笑いが生まれました。
「母の娘である私」と「自分を呪って生きる私」を敢えて別々の存在であるかのように客観視したからこそ生まれた笑いでした。
つまり、当時の私の心(脳)にはそれだけ乖離した部分があったということに他なりませんが…(汗)
「…うん、わかった。
ひどいこと言ってごめんなさい。
でも、自分を見るって、どうしたらいいの?」
母は少し考えて言いました。
「…じゃあ、呪文を教えてあげるね。」
「え、呪文!?」
「そうよー?好きでしょ?」
「うん!どんなの?」
母は唱えました。
『楽しむための楽しみを楽しむために楽しんでいる楽しみに魂を楽しまれているこの人だぁれ?』
それは「明日なんて来なければいいのに」といった私の呪(のろ)いに対する、お呪(まじな)いでした。
当時、先の見えない闘病生活の苦痛に囚われていた私は、刹那的で享楽的になり、「今この瞬間の楽しみ」というものにしがみついていました。
当然、自分を客観視なんてできませんし、苦痛ばかりを見つめているから、そんな自分が実は楽しみを手放したくなくてしがみついているのだなんて逆説に、気づくこともできません。
こうしたモノの見方を転換することを「解釈を換える」といいますが、この呪文はまさにそれでした。それ以降も母の数々の教えを受けながら、私は事あるごとにこの呪文を思い出しては現実を直視し、自分を客観視することができるようになっていったのでした。
意識ひとつでこんなにも心が自由になれるなんて、「呪(のろ)い」と「呪(まじな)い」は、本当に紙一重です。
そういえば、SEASON1 の最終話で深町くんが言いましたね。
『「家族」とか「友達」とか「恋人」って名前の人は居なくても、俺は孤独じゃありません。』
「解釈」…モノの見方を替えて、社会にかけられた、時には自分で自分にかけてしまった「呪(のろ)い」から解放され、真実の自分になる「呪(まじな)い」を手に入れることの大切さを、彼もまた知ったのですね。
話が長くなってしまいましたが、「高槻准教授」のドラマの中で彼らが得た気づきと、私が小さい頃に母から教わっていたことは図らずも共通していたということ。また「解釈」を換えれば概念が変わり、家族間のしがらみや「こうでなければならない」という無意識や社会通念上のマウンティングなどから自由になれるということを、今回改めて確認できました。
あぁ〜、
続きのSeason2はいつ地上波に来るのかな〜。
待ち遠しい〜〜!
と、ジタバタしても仕方ないので。
首を長くして待つとしませう。
長い話にお付き合いいただき、
ありがとうございました!
さて、今日はこれまで、続きは今度。
またお会いしましょう!
茶豆でした〜!